A CUP OF ALOHA

Gerald Y.Kinro著『A Cup of Aloha: The Kona Coffee Epic』は2003年6月の刊行された本です。もう20年以上前に出版された本ということになります。

著者のGerald Y.Kinro氏について、この本の著者紹介では以下のように記されています。

Gerald Kinro was born and raised on a coffee farm in Kahalu’u, Kona.
A pesticide specialist with the Hawai’i State Department of Agriculture, he is the author of more than a hundred articles on agriculture and other subjects in local, national, and international publications.

著者のGerald Y.Kinro氏は、コナのカハルウ(Kahalu’u, Kona)にあるコーヒー農園で生まれ育ちました。
ハワイ州農務省の農薬専門家であり、地元、国内、海外の出版物で農業やその他のテーマに関する100本以上の記事を執筆しています。

コナコーヒーの歴史、コーヒー種の旅、日系人とのかかわりなど最近ではいくつもの発見や知見が発表されていますが、地元のコーヒー農園生まれの農業の専門家であるGerald Y.Kinro氏の本には改めて知っておきたいコナコーヒーの壮大な旅の様子が描かれています。

私たちは、無謀にもこのステキな本を日本の方に是非読んでいただきたく、また紹介すべく、グーグル翻訳の力を借りながら、日本語訳に挑戦してみました。

挑戦するにあたって、著者のGerald Y.Kinro氏に連絡を取るべく、ネット上を探してみましたが、著者に行き当たらず、残念ながら、著者の許可や了承なく、ここに日本語訳を紹介していることを申し上げておきます。

もし、著者のGerald Y.Kinro氏自身、または著者をよく知る方などがいらっしゃったら、お手数でも私ども上ナシ珈琲までご連絡いただければありがたいです。

日本語訳の文責はすべて私たち上ナシ珈琲にあります。Gerald Y.Kinro氏の著作を繰り返し読み、検討して翻訳しましたが、著者の思いを十分表現しきれていないとすれば、私たちの責任です。

翻訳が拙くても、コナコーヒーの大きな歴史の流れは感じていただけると思いますので、地元生まれの生粋のコナコーヒー節をお楽しみください。コナコーヒーを飲むということはその味の後ろにある苦悩や喜びの歴史も味わうことだと信じています。

コナコーヒーに栄光あれ!

それではコナコーヒーの旅にしゅっ~ぱつ~!

旅のガイド役は地元のGerald Y.Kinro氏です。ひとまず第1章まで訳してみましたのでお読みください。

Gerald Kinro著『A CUP OF ALOHA ― THE KONA COFFEE EPIC』

この本の内容は・・・
INTRODUCTION (はじめに)
ACKNOWLEDGMENTS (謝辞)

PART I : ESTABLISHING AN INDUSTRY
CHAPTER 1   COFFEE COMES TO KONA
CHAPTER 2   THE PIONEERS

PART II : SETTING THE STAGE
CHAPTER 3   THE PLAYERS AND THEIR ROLES
CHAPTER 4   LIFE ON A FAMILY COFFEE FARM

PART III : THE RIDE ON THE COFFEE CYCLE
CHAPTER 5   ROCK BOTTOM ROAD-THE DARK YEARS
CHAPTER 6   THE WORLD WAR II YEARS
CHAPTER 7   TALES OF VERTICALS
CHAPTER 8   COFFEE IN THE NEW STATE
CHAPTER 9   ON HEARTBREAK HILL―THE BEGINNING OF THE END OF THE NISEI ERA
CHAPTER 10  ON THE ROAD TO PURE KONA
CHAPTER 11  FIGHT FOR IDENTITY

PART IV :  A CUP OF ALOHA
CHAPTER 12   A CUP OF ALOHA

APPENDICES
NOTES
INDEX

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INTRODUCTION(はじめに)

コーヒーは、21世紀初頭には石油に次いで2番目に広く取引されている合法的な商品の1つです。コーヒー取引は、大規模な生産国による政治と価格操作を伴う大規模なゲームです。コナコーヒー(Kona coffee)は、この膨大な生産量の小さなサブセットであり、世界のコーヒーのほんの一部を占め、長さ約20マイル、幅2マイルの地域で栽培されています。

コナマウカ(Kona Mauka)(コナの山腹)のママラホアハイウェイ(Mamalahoa Highway)に沿って走るこの帯は、コナコーヒーベルトとして知られています。

コナはマイナーな産地であるため、コーヒー経済の良くも悪くも影響を受けています。価格変動や市場の供給過剰の影響を受けやすく、コナコーヒー産業とコナの入札者にとって試練の時となっている。

歴史的に、ハワイではコーヒーは砂糖産業の二の次でした。砂糖は島の農業資源のほとんどを占め、その生産には膨大な量の水、労働力、機械、土地が投入されました。

砂糖は、AMFAC、アレクサンダー・アンド・ボールドウィン(Alexander and Baldwin)、C・ブリューワー(C. Brewer)、キャッスル・アンド・クック(Castle and Cook)、テオ・H・デイビス(Theo H. Davies)といった大投資家の資金援助を受けたプランテーション作物で、総称してビッグ・ファイブ(the Big Five)と呼ばれています。

ハワイへの移民のほとんどは砂糖産業で働くためにやって来たため、人口の多くは砂糖にルーツを持っています。20世紀のほとんどの間、砂糖は最高の地位を占めていました。

一方、コナコーヒーの生産は家族経営です。

経済不況の時期には、コーヒー栽培家族全員が負担を負い、より懸命に働かなければなりませんでした。コナコーヒー(Kona coffee)の歴史において、専門家は何度もコナコーヒー(Kona coffee)の死を宣告してきました。しかし、そのたびにコナ栽培者は立ち直り、生き延びてきました。耐え抜き、この産業を存続させるには、特別な献身を持った特別な人材が必要でした。

皮肉なことに、21世紀に入ると、ハワイの砂糖農園は2か所を除いてすべて閉鎖されました。アレクサンダーアンドボールドウィンアンドカンパニー(Alexander and Baldwin and company)が所有し、マウイ島で操業していたハワイコマーシャルアンドシュガーカンパニー(HC&S) (The Hawai’i Commercial and Sugar Company)が最大の農園でした。カウアイ島にはゲイアンドロビンソンカンパニーが所有する小規模な農園がありました。砂糖はハワイにとって依然として主要産業ではあるものの、縮小されました。

砂糖生産の減少を反映して、コナのコーヒー生産量は1950年代に比べて大幅に減少しました。しかし、コーヒーはハワイ島で砂糖よりも長く存続し、強力で成長可能な産業として新世紀に入りました。コーヒー農家の多くは安全策として事業を多様化し、パートタイムで農業を営む農家も多かったです。いずれにせよ、21世紀になっても課題や価格変動は存在し、すべてを継続するには強い意志が必要でした。

この物語の着想は、私が頻繁にハワイ島(the Big Island)を訪れていたときに思いつきました。

ヒロとハマクア(Hilo and Hāmākua)地区のかつての砂糖農園が、マカダミアナッツの生産やその他の用途に縮小され、一部が休耕地になっているのを見て、私は皮肉を感じずにはいられませんでした。かつての砂糖王たちがコーヒー栽培に切り替えていたのです。

コナのカハルウとホルアロア(Kahalu’u and Hōlualoa)を通り過ぎると、コーヒーの木々が見えました。中には若くて新鮮なものもありましたが、何十年も前に私が子どもの頃に見たものと同じものもありました。生き延びていたのです。

祖父が埋葬されているホルアロア日本人墓地に着く頃には、コナコーヒーに携わった人々の努力についてもっと読みたいという強い思いが湧いてきました。

なぜ誰もコナコーヒーの物語を伝えないのか不思議でした。

すでにいくつかの作業は行われていましたが、さらに拡張する領域もありました。私は子供の頃に学んだ教訓を思い出しました。

何かを成し遂げたいなら、自分でやりなさい。

コナコーヒー戦士(Kona coffee warriors)の精神に忠実に、英雄的と形容される努力をした人々の物語を伝えるために全力を尽くさなければならないとわかっていました。

これがその物語です。

ACKNOWLEDGMENTS(謝辞)

コーヒー農園で育った私は、コナコーヒーについてよく知っていると思っていました。しかし、それは大間違いでした。これは確かに勉強になりました。

『A Cup of Aloha-The Kona Coffee Epic』は、サポート、情報、アートワーク、建設的な批評を提供してくれた他の人がいなければ完成しませんでした。

このプロジェクトでは、非常に多くの人が寛大に私を支援してくれました。

支援してくれた人全員の名前を挙げることはできませんが、次の方々に感謝したいと思います。

Hawai’i State Department of Agriculture(ハワイ州農務省)のSam Camp氏

University of Hawai’i College of Tropical Agriculture and Human Resources(ハワイ大学熱帯農業・人材学部)のSkip Bittenbender氏とC.L. Chia氏

the University of Hawai’i Oral History Program(ハワイ大学オーラルヒストリープログラム)のWarren Nishimoto氏

原稿に対する貴重な批評をしてくれたAl Izen氏, Martha Noyes氏とWaimea Williams氏

以下の素晴らしいコナの人々には特に感謝いたします:

Kona Pacific Farmers Cooperative(コナ・パシフィック農業協同組合)のSotero Agoot氏

Kona Historical Society(コナ歴史協会)のSheree Chase氏、Terre Kriege氏

Hawai’i State Department of Agriculture(ハワイ州農務省)のRichard Dinker氏, Ed Kise氏, Tami Murakami氏

University of Hawai’i Cooperative Extension Service(ハワイ大学協同組合拡張サービス)のVirginia Easton Smith氏、

Hawai’i Community Credit Union(ハワイ・コミュニティ・クレジット・ユニオン)のDean Uemura氏、Fujiko Akamatsu氏、Gladys Fukumitsu氏、 Alfrieda Fujita氏、Steve Hicks氏、Ed Kaneko氏、Walter Kunitake氏、Herbert Okano氏、Norman Sakata氏、Leta Schooler氏、Bob Smith氏、Cea Smith氏、Vicki Swift氏

編集者のMasako Ikeda氏とUniversity of Hawai’i Press(ハワイ大学出版局)のスタッフとreviewers(査読者)の皆さんには、建設的な批評をしてくださったこと、そしてこの作品を信じてくださったことに感謝しています。

最後に、サポートと励ましをしてくれた妻のサンディ、そしてコーヒーサイクルに加わってくれた父、母、祖父母に感謝したいと思います。素晴らしい時間でした。

PART I: ESTABLISHING AN INDUSTRY

第1章 Coffee Comes to Kona

The Discovery of the Wonder Drink(不思議な飲み物の発見)

コーヒーがコナにたどり着くまでには何百年もの歳月と、幸運、ニアミス、そして伝説に満ちた遠回りの道のりを要した。

旅はアフリカから始まった。

そこでは、コーヒーの覚醒剤としての価値は何世紀も前から知られていた。コーヒーを最初に使った人々は、その実と葉を食べた。

エチオピアのガラ族の遊牧民戦士たちは、砕いたコーヒー豆と動物性脂肪を混ぜて、長い旅路で栄養補給に役立った高たんぱく質・高脂肪の食事を作り出した。

エネルギーとカフェインは兵士にとって良い食べ物となり、その結果、勇敢な戦士が誕生した。

20世紀後半、エチオピアの料理本には、初期の作り方を模倣したブンナ・ケラ(乾燥したコーヒー豆)のレシピが掲載されていた。この証拠に基づくと、コーヒーを食べる習慣が21世紀まで受け継がれた可能性がある。

西洋の伝説では、コーヒーの効能を発見したのはエチオピアのヤギ飼いカルディだとされている。

伝説によると、カルディはヤギが赤いコーヒーチェリーを食べて狂乱状態になっていることに気付きました。好奇心旺盛なカルディはチェリーを試食し、エネルギーが湧き上がってくるのを感じてうれしく思いました。そしてヤギと一緒に踊り始めました。すぐに、コーヒーチェリーを食べることが毎日の習慣になりました。カルディの元気いっぱいの行動は見過ごされることなく、観察力のある地元の僧侶が自分で赤い果実を試してみることにしました。

彼もまたエネルギーの高まりを感じ、他の僧侶たちが長時間の祈祷中に注意力を維持できるように、コーヒーの実を煮て飲み物を作ることにしました。

このスーパードリンクのニュースは広まり、すぐに王国のすべての僧侶がコーヒーについて知るようになりました。熱心な僧侶たちは、より長い時間祈祷を行えるように、この飲み物を楽しみました。

イスラム教の国にはコーヒーの起源に関する独自の説があります。病気のモハメッドの夢に天使ガブリエルが現れたと言われています。善良な天使はモハメッドに赤い実を見せ、その薬効について教えました。また、コーヒーにはモハメッドの信奉者の祈りを促す力もありました。

コーヒーの初期の栽培と、今日知られているような使用法に関係しているのはアラブ人です。イスラム教とコーヒーは、ほぼ同時期にアラビア半島に定着したようです。

ローマ帝国の崩壊後、イスラム教が台頭する前に、ペルシャ軍がエジプトを征服し、この地域に定住しました。ペルシャ人は時折エチオピアに侵攻し、現在のイエメンにコーヒーを持ち帰りました。

アラブの医学書には、10世紀末ごろにコーヒーが使われていたと記されています。もともと、修道士たちは、祈りを捧げるために目を覚ましておくためにコーヒーを飲んでいました。コーヒーを飲むと一般の人々が「賢くなる」ということが多くの人にわかり、コーヒーの人気は一般の人々の間に広まりました。

コーヒーの人気により、特別な飲用場所、つまり最初のコーヒーハウスが作られました。コーヒーを邪悪なものと考え、禁止を主張する宗教狂信者の反対にもかかわらず、コーヒーハウスは中東全域にオープンしました。

Spreading North(北への広がり) ― Kolshitsky(コルシツキー)

The Brave Innovator(勇敢な革新者)

コンスタンティノープルに最初のコーヒーハウスがオープンしたのは1554年で、17世紀までにはコーヒーはアラブ世界で非常に人気の飲み物となっていました。

イスラム教の普及とともにコーヒーがもたらされ、帝国拡大のための戦争中、トルコの兵士たちはコーヒーで元気を取り戻しました。

女性たちは出産の痛みを和らげるためにこの奇跡の飲み物を飲むようになりました。オスマン帝国の統治者はすぐに、男性が妻にコーヒーを与えることを拒否することを離婚の法的根拠としました。コーヒーは国民的な飲み物であり、パンや水と同じくらい重要なものでした。

トルコ人がより多くの領土を征服するにつれ、コーヒーがワインに代わる飲み物として選ばれるようになりました。

しかし、コーヒーを飲んだヨーロッパ人は、この飲み物が苦くて口に合わないと感じました。コーヒーハウスは1650年にロンドンに、1666年にはアムステルダムにオープンしましたが、ヨーロッパでコーヒーの消費に革命を起こしたのは、ポーランド人のフランツ・ゲオルク・コルシツキー(Franz Georg Kolshitsky)です。

何よりもまず、コルシツキーはオーストリア人にとって戦争の英雄でした。

17世紀後半、ウィーンはトルコに征服される寸前でした。トルコが成功していたら、ドナウ川沿いの地域はオスマン帝国のさらなる拡大のために整えられていたでしょう。

コルシツキーは、カール・マルテルの軍隊が彼らを救出しトルコを倒すまでウィーン市民に抵抗するよう鼓舞した功績があるとされています。バイリンガルのコルシツキーは、敵陣に侵入するという大胆な仕事を引き受けました。

スパイ活動中に、彼は奇跡の飲み物を味わい、好きになりました。その後の戦闘では、敗北したトルコ軍の陣地からコーヒーの戦利品を集めました。オーストリア人は彼の仕事に感謝し、ウィーンでの完全な自由と現金の支払いを与えました。

コルシツキーは1600年代後半にウィーン初のコーヒーハウスをオープンし、コーヒーの粉を濾し、蜂蜜とミルクを加えることで、ヨーロッパ人の味覚に合うコーヒーを考案しました。この新しいコーヒーを三日月形のケーキやドーナツと一緒に出すと、コーヒーとペストリーの組み合わせが流行し、さらに重要なことに、コーヒーを飲むことが流行します。

ヨーロッパ中にコーヒーハウスが出現し、コーヒーの消費量が増加しました。中東から豆を持ち帰った商人たちは大きな成功を収めたのです。

The Spreading of Seed(種子の拡がり)

コーヒーハウスは1600年代後半にアメリカ植民地にやってきました。植民地人がイギリスの茶税に抗議するなか、コーヒーの人気は高まりました。

しかし当時、コーヒーの唯一の供給源はアラビア帝国でした。アラビアのコーヒー栽培者はコーヒーの木を非常に大切にし、挿し木や種子を土地から持ち出すことを禁じました。

インドから来たイスラム教の巡礼者ババ・ブッダン(Baba Buddan)は、メッカから種子を密かに持ち出し、マイソール(Mysore)の自宅で植えました。これがアラビア以外で栽培された最初のコーヒーの誕生です。

この冒険は、コーヒーがアラビア以外でも栽培できること、また盗まれる可能性があることを示しました。

1690年、オランダ人はヨーロッパでのコーヒー人気から自らも成功しようと決意し、アラビアのコーヒーの木から挿し木を盗みました。そしてそれをオランダ領東インドのジャワ島に運び、そこでオランダ人はヨーロッパ人経営の最初のコーヒー農園を設立しました。この植物はこの熱帯気候でよく育ち、東インドはすぐにアラビアに取って代わりコーヒー生産の世界的リーダーとなりました。オランダ人は

ジャワ島で育った木をアムステルダム植物園に展示することで、その成功を誇示しました。これらの木は、世界のコーヒー産業の多くの将来の源となりました。

1714年、オランダ人はフランスのルイ19世(Louis XIX)に1本のコーヒーの木を贈りました。その贈り物はパリの植物園に置かれ、ジュシュー氏(Jussieu)率いる植物学者の保護の下、王室の温室の1つでよく育ちました。

アメリカ大陸にコーヒーを持ち込むには、マルティニークに駐留していたフランス陸軍士官、ガブリエル・マチュー・デスクリュー中尉(Lieutenant Gabriel Mathieu Desclieux)の英雄的な努力が必要でした。

熱心な読書家であったデスクリューは、コーヒーが東インド諸島で成功していることを知っていました。彼は、東インド諸島でよく育つ植物が、彼の故郷である西インド諸島でも繁茂することを知っており、コーヒーはマルティニークでもうまく育つだろうと結論付けました。

彼は故郷の島でコーヒーの特徴に合う植物を探しましたが、見つかりませんでした。

コーヒー栽培への関心は、フランスへの休暇中も消えることはなかった。滞在中、消費されるコーヒーはすべてアラビアやオランダ領東インドからのものだと彼は気づきました。これは、フランスが自国でコーヒーを生産すべきだという彼の信念を裏付けるものでした。

しかし、植物学者ジュシューは、デスクリューに種子や新芽を分け与えようとしなかった。デスクリューはひるむことなく、王の主治医を説得して挿し木をもらうことに成功します。そうすることは愛国心なのだと彼は言いました。彼はまた、主治医から、挿し木を輸出する許可を取りつけました。ジュシューや他の植物学者たちはこのことを知りませんでした。

1723年5月、デスクリューはガラスケースに大切な挿し木を入れて新世界へ帰る旅のため船に乗り込んだ。この植物はかろうじて航海を生き延びたと言われています。デスクリューがある日目を覚ますと、誰かがガラスケースを開けて植物の芽を折っていた。彼は取り返しのつかない被害を恐れ、もっと用心深くあるべきだったと悔いた。デスクリューは船上で出会ったオランダ訛りのフランス語を話すオランダ人のスパイがいるのではないかと疑いました。スパイとされる人物はマデイラ島(Madeira)で下船しました。

他にも危険はありました。デスクリュー達は海賊に遭遇し、戦いが始まりました。彼は諦めず、自分の宝物である植物を守りました。

彼らは海賊に敗北して乗っ取られる寸前でしたが、幸運にもスペインのガレー船(Spanish galley)がその地域に来て助けてくれたので、ようやく救出されました。

この争いの最中にデスクリューのガラスケースのカバーが壊れ、植物が露出しました。彼は植物を外套に包んでおこうかと考えましたが、光が必要だと判断し、カバーを修理するために最善を尽くしました。

その後、激しい嵐がやってきました。今度はガラスケースが割れ、挿し木は塩水に浸かってしまいました。嵐の後、無風の期間が訪れ、船は大西洋に取り残され、暑い太陽がコーヒーの木を照りつけ、必要な水分を奪ってしまいました。暑さと嵐で、人間の生命維持に不可欠な貴重な飲料水がほとんど枯渇していました。それでも、コーヒーの木を救うために、デスクリューは配給分の飲料水を与えました。

渇きに飢えた船員が、デスクリューが水をやっているのを見て、挿し木を破壊しようとしました。勇敢な中尉は、その男と戦って撃退しました。

ついに風が強くなり、船は動き始めました。それでも、航海はゆっくりと進みました。水はすべて使い果たされ、船に乗っていた全員が弱々しく横たわり、もはや希望はなかったため、避けられない結末を待っていました。

しかし、誰かが陸地を見つけ、元気を取り戻して、最後の航海を始めました。彼らはアンティル諸島(the Antilles)に到着しました。

デスクリューと彼の挿し木は生き残り、マルティニーク(Martinique)のプランテーションに植えられました。この一本の木から種子と挿し木が生まれ、中央アメリカ、南アメリカ、そして最終的にはハワイの多くのコーヒー農園にコーヒーを供給しました。

一方、デスクリューは第三騎士団の騎士となり、最終的にはアンティル諸島(the Antilles)の総督になりました。

Palheta’s Patriotic Deed(パリェタの愛国的行為)

フランスとオランダは新世界でのコーヒー生産を支配し、それぞれフランス領ギアナとオランダ領ギアナに農園を維持していた。ポルトガルは生産量の分け前を欲しがっていたが、ブラジルで新しい農園を始めるための株を入手することができなかった。フランスとオランダの両国はコーヒーチェリーと挿し木の輸出を禁止していた。

ポルトガルにとって幸運なことに、フランス領ギアナとオランダ領ギアナの間で国境紛争が勃発した。1727年、ブラジルの特使フランシスコ・デ・メルホ・パリェタ(Francisco de Melho Palheta)が、この相違点の解決を依頼された。

外交任務を遂行する中で、彼はフランス領ギアナ総督の妻を魅了し、誘惑した。後に、総督が見守る中、妻は感謝の意を表して、コーヒーチェリーを隠した花束をパリェタに贈った。パリェタは、このチェリーをブラジルに送った。

ブラジルは世界有数のコーヒー生産国となり、同様にラテンアメリカの多くの地域で栽培されるコーヒーの原産地となり、ハワイとコナで最初に栽培されたコーヒーの産地にもなりました。

The Trip to Hawai’i-Boki Takes Charge

ハワイへの旅-ボキが主導権を握る)

ドン・フランシスコ・デ・パウラ・マリン(Don Francisco de Paula Marin-Chilean)は、チリ出身で船の顧問兼補給係、カメハメハ1世の通訳兼医師、蒸留酒製造者で、1817年にハワイで最初のコーヒーの種を植えました。

華やかなマリンは熱心な園芸家で、ハワイに他の植物種を導入し、白檀(sandalwood)の取引で利益を上げました。また、ホノルルのダウンタウンに、ヴィンヤード・ブールバード(Vineyard Boulevard)とヴィンヤード・ストリート(Vineyard Street)の名前の由来となったブドウ園を植えました。

彼の女性好きは伝説的で、少なくとも23人の子供の父親です。

マリンはおそらく一度に多くのことを引き受けすぎたため、コーヒーは定着しませんでした。それでも、彼はさらなる関心を呼び起こしました。

1819年にカメハメハ1世(Kamehameha I)が死去すると、息子のリホリホ(Liholiho)が王位に就き、カメハメハ2世(Kamehameha II)となった。

当時、島々ではロシアの影響力が懸念されていた。カメハメハ2世 (リホリホ) は、ロシアがカウアイ島の酋長と同盟を組むと内戦になるのではないかと恐れていた。そのため、1823年11月、リホリホと妻のカママル(Kamāmalu)はハワイを出発し、ジョージ4世(King George IV)にロシアからの保護のために同盟を結ぶよう要請した。カメハメハ 2 世の随行員の中には、オアフ島の知事であるボキ酋長(Chief Boki)もいた。

残念なことに、この公式訪問中に、王室夫妻は当時ハワイの人々にはあまり馴染みのなかった麻疹(measles)に感染しました。ジョージ王の医師による治療にもかかわらず、夫妻は亡くなり、ボキ酋長(Chief Boki)が代表団の指揮を執ることになりました。彼はカメハメハ2世の外交任務を無事に遂行しました。

イギリス滞在中、ボキ酋長(Chief Boki)はいくつかのコーヒーハウスを訪れ、そこで出される飲み物を楽しんだ。ハワイでコーヒーを栽培できる可能性を感じたボキ酋長(Chief Boki)は、イギリスの農学者ジョン・ウィルキンソン(John Wilkinson)をハワイに呼び寄せ、ホノルルのマノア渓谷(Honolulu’s Mānoa Valley)で砂糖とコーヒーを栽培させました。

帰路、ボキ酋長(Chief Boki)は彼らの船、H.M.S.ブロンド号(H.M.S. Blonde)をブラジルのリオデジャネイロに寄港させ、このプロジェクト用のコーヒーの苗木(coffee seedlings)を購入しました。

1825年5月、H.M.S.ブロンド号はハワイに到着しました。

ウィルキンソン氏(John Wilkinson)の努力はフランシスコ・パウラ マリン(Don Francisco de Paula Marin)の努力よりも実を結び、コーヒー農園の設立に成功しました。

1828 年、サミュエル・ラグルズ牧師(Reverend Samuel Ruggles)は、この地域を美しくするという夢を抱いて、このマノアの畑(Manoa field)から挿し木を採取し、南コナのナポオポ(Nāpo’opo’o, South Kona)の近くに植えました。

ラグルズ牧師は、おそらく無意識のうちに、コーヒー栽培に最適な地域にコーヒーを導入したのです。

こうして旅が始まってから1000年が経ち、祖先の故郷であるエチオピアから地球の反対側で、コナコーヒーは日の目を見るのを待ち構えていたのです。