「上ナシ」と隆慶一郎さん

隆慶一郎を読まずに死ねるか!

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上ナシ珈琲では、Kona Coffeeの最上等級”エクストラファンシー”の生豆と焙煎豆のみを取り扱い販売しています。
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こんにちは、コーヒー豆や🫘「上ナシ」のフーテンMです。

今回は、私たちが2024年末に立ち上げた〈100% Kona Coffee 専門店〉につけた名前「上ナシ」について話しておきます。

その昔、内藤陳さんの本で『読まずに死ねるか』というのがありました。ネットで検索すると 1983年5月刊ですから、もう40年も前の本なんですね。

もうボクの手元にこの本はないけれど、内藤陳さんがおススメの冒険小説をこの本を見て知って読んだ遠い記憶があります。どんな本をおススメしていたのかの内容はまるで覚えていないけれど、40年経っても、この本のことを記憶しているのは、まさにその題名『読まずに死ねるか』がずっと頭に残っていたからだと思います。

内藤陳さんの『読まずに死ねるか』はアマゾンで検索すると、PART4まで確認できるので、当時はよく売れたんでしょうし、続編らしき『読まずば二度死ね』シリーズもあるから、当時の特に若い読者は内藤陳さんを入り口に冒険小説やハードボイルドなんかに入っていったのかも。

ややこしいんだけど、内藤陳は『読まずば二度死ね』で、ジェームズ・ボンドは『二度死ぬ』ですぞ🥳

内藤陳さんは、今でいう【本屋大賞】とか【週刊文春ミステリーベスト10】の役割を個人で先駆的に果たされた方と言ってもいいのかもしれませんね。

アマゾンで検索すると『読まずに死ねるか』を冠した本がいくつか見つかります。

読まずに死ねるか、お葬式の研究(1993年9月刊)
雑学BOOK 読まずに死ねるか(2021年2月刊)
ヨハネの黙示録完全解読版 : 世界最高峰に君臨する謎を読まずに死ねるのか(2022年3月刊)

上記はいずれも読んだことはないけどね。

で、その中で、1996年12月刊『この時代小説を読まずに死ねるか』があります。本の内容説明には【時代小説はサラリーマンのユーミン。「大菩薩峠」から隆慶一郎ワールドまで、ニヒリストヒーローあり、捕物帳あり、仇討ちあり。36のキーワードで厳選した歴史・時代小説ガイドの決定版】とある。

【時代小説はサラリーマンのユーミン】のキャッチコピーの意味はボクにはよくわかりませんが🤣(どういう意味なんやろ!?)、そう、「上ナシ」の語を世に知らしめた我らが隆慶一郎さんの名もこの本にはある。隆慶一郎ワールドは言いえて妙ですな。たしかにワールドだからね。

隆慶一郎ワールドを一言で表せば、Netflix〈Mr.マクマホン: 悪のオーナー〉で語られた言葉がふさわしい。すなわち「見事な創作は境界があいまいで現実かストーリーかわからない」。

Netflix〈Mr.マクマホン: 悪のオーナー〉の一場面

ボクにとって「読まずに死ねるか」といえる本がいくつかあるけれど、「読まずに死ねるかNo.1」は隆慶一郎さんというわけです。これまでいったいどれくらい隆慶一郎さんの本を配ってきただろうか。オレはサンタクロースかよ!?

読む時間がないって人には「学校休んでよし!」とか「仕事休んでよし!」と勝手にお墨付きを出したり、「読んだら小遣いくれる?」とか「読んだら奢ってくれる?」って人には喜んで身銭を切った。とにもかくにも「人生に必要なことはすべて隆慶一郎が教えてくれる」から、目の前のやらなきゃいけないことはすべて投げ擲って読んでくれ!と。

挙句の果てには「隆慶一郎を読まずに死ぬなんて生まれてきた意味ある?」くらいのことは言ったかも。我が子にだって、ましてや他人様に対して「生まれてきた意味」をほじくって問い質す資格はボクにはむろんないけれど、こんなおもしろい本を知らずに生きるのはもったいない、仕事をやめてもいいし、学校なんか行かなくても、テストで0点だってかまわないから、隆慶一郎を読むべし!なのだ。

さらに突っ込んでいえば、ボクは縁あってハワイから仕入れることができた”Kona Coffee エクストラファンシー”だけを売るために「上ナシ珈琲」の看板を掲げ、ロゴやパンフレットを作り、またこのサイトやBASEショップやInstagramを同時に立ち上げたけれど、究極の選択として、世の中の人がこのサイトにやってきて、この記事を読んで

【隆慶一郎の本 > 100% Kona Coffee extrafancy】

となって、「コナコーヒーは買わなかった」けれど、「隆慶一郎の本を一冊買って読んだ」となるなら、「泣いて馬謖を斬る」の心境でそれでもよし!とする・・・くらいの気持ちです。

本屋さんが選ぶ時代小説大賞で次々と新しい世代の小説家が年々発掘されているけれど、ボクにとっては、未だ「隆慶一郎の上ナシ」なんですよ。

新潮社『隆慶一郎全集5』より

じゃあ、隆慶一郎の何がそれほど魅力なのか?

隆慶一郎さんの文庫本ではたいてい縄田一男さんが解説を書いているので、隆慶一郎をもっともよく知る男と勝手に名づけて、縄田さんの解説の一部をここに紹介します。

新人物往来社【隆慶一郎読本】より
影武者徳川家康の読み方 縄田一男(文芸評論家)

・・・さて『影武者徳川家康』は昭和61年1月4日から63年11月30日まで「静岡新聞」に連載され翌平成元年5月、新潮社から刊行された。文字通り隆慶一郎、畢生の大長篇である。

家康は関ヶ原で暗殺された!余儀なく家康として生きた男と権力に憑かれた秀忠の凄絶な暗闘が始まった。『影武者徳川家康』

そして、怖らくは、一人、隆慶一郎の代表作であるのみならず、昭和の大衆文学の掉尾を飾るにふさわしい偉容を誇っている点に、この作品の端倪すべからざる点があるといえはしないだろうか。

前述の羽生真名『歌う舟人—父隆慶場一郎のこと』には『影武者徳川家康』刊行のくだりが、

5月末に『影武者徳川家康』が出版された。
これは最初一年間の予定で静岡新聞に連載された作品である。
父自身も言っているように、一向一揆にのめりこみ、だんだん長くなって、結局二年半にわたり連載することになった。

父は、一向一揆が単なる宗門一揆や百姓一揆ではなかったこと、漂泊の民が深く関わっていたことを井上鋭夫氏の研究により知ったという。また日本史において、中世に対する近世というものを、戦国時代以降とし、天下統一を目指す戦国の武将によって治められた、良くも悪くも秩序ある世界を近世と考えた。

そしてその近世(当時としては近代的専制)に対し、仏様以外「主をもたじ」と唱え、真に自由を志した民衆(そこには百姓も、山人、海人も、ワタリもいた)――そういう民衆が団結して立ち上ったのが、一向一揆だったのではないか・・・・・・いわば『自由のための闘い」という思い入れがあり、一向一揆の描写にも自然に力が入ったようである。

と、記され、そのテーマの一端が披瀝されている。

隆慶一郎の娘が描く、人間・隆慶一郎の思い出。隆さんの写真も収録し、三周忌を期に刊行された、父&作家の実像羽生真名『歌う舟人—父隆慶場一郎のこと』

しかし、こと隆慶一郎の場合、その作品に託されたテーマ自体が余りに壮大なスケールを持っていたため、なかなか読者の眼に入らなかったというのが偽らざるところなのではないか。

ここで試みに『影武者徳川家康』に至るまでの隆慶一郎の作品的経緯を振り返ってみれば、本書(影武者徳川家康)が刊行されるまでに書店に並んだ隆慶一郎の著作は全部で五冊ということになる。

戦国末期、天下の傾奇者(かぶきもの)として知られる男がいた。派手な格好と異様な振る舞いで人を驚かすのを愉しむ男、名は前田慶次郎という。故あって、妻子を置き旅に出た男の奔放苛烈な生き方を描く時代長編『一夢庵風流記』(読売新聞社)

すなわち、肥後の山中で幼い頃より宮本武蔵によって育てられた青年剣客、・・・松永誠一郎が、・・・傀儡子たちの自由と被差別の砦吉原を守るべく豪剣をふるう『吉原御免状』(昭和61年2月、新潮社)とその続篇「かくれさと苦界行」(昭和62年12月、新潮社)、巨躯の野人である刀工・鬼麿が四谷正宗と謳われた師匠山浦環=源清麿が心ならずも残した数打ちの刀を折り捨てる旅に出る痛快譚「鬼魔斬人剣」(昭和62年5月、新潮社)、隆慶一郎作品ではしばしば敵役として登場する、柳生一門の異形の精神史を苛烈な剣戟描写の中に捉えた作品集『柳生非情剣』(昭和63年12月、講談社)、そして、稀代のかぶき者前田慶次郎の行状を通して、自身の作品におけるヒーローと神話との関係を明らかにした第二回柴田錬三郎賞受賞作『一夢庵風流記』(平成元年3月、読売新聞社)の五作である。

中山道、野麦街道、丹波路、山陰道と、師の足跡を追い、女を惹きつけ、伊賀者に追われつつ、異色のヒーローが繰り広げる斬人剣八番勝負「鬼魔斬人剣」(新潮社)

これらの作品には、歴史家に負けぬ小説を書くこと、そして、歴史に刻まれることなく死んで行った者たちに鎮魂の盃を傾けること、という隆慶一郎が自身の作品の中で果たそうとした二つの目標を全うすべく、作者自身の言葉を借りれば「伝奇的手法及び文章を使いながら、歴史的事実を再構成したい」、すなわち、歴史を虚構化するのではなく、虚構によって歴史を捉え直すのだという視点が如実に息づいていた逸品揃いだった。

こうした姿勢は、当然の如く色分けされていた、歴史小説とは、歴史上の事件や人物を史実に沿って描いたものであり、時代小説(伝奇小説)とは、歴史の衣装を借りて作者の自由奔放な夢を展開するロマンであるとする分類、もしくは、歴史の重みの前には伝奇ロマンの夢等は荒唐無稽な絵空事にすぎないという、斯界に弥漫していた抜き難い偏見の無化、もしくは解消を意味していた。

そして両者を完全にアウフヘーベンした時、はじめて至高の歴史・時代小説をものすることが出来る。隆慶一郎はその最も困難な道に挑んだのである。

結果、作中には神話的ダイナミズムを持ったストーリーを支える核として最新のアカデミズムの成果が総動員されることになった。

その中で隆慶一郎が最も快哉を叫んだものが、網野善彦が画期的な中世研究『無縁・公界・楽——日本中世の自由と平和』(昭和53年6月、平凡社)『日本中世の非農業民と天皇』(昭和59年2月、岩波書店)で明らかにした『道々の輩』『公界の者』ら漂泊の自由民たちの存在であったろう。

網野史学の根底にあるものは、これまで日本の歴史を語る上で定説となっていた農業定置民中心の視点を、決まった土地を持たず、全国を放浪して一生を終えた海人、山人、輸送業者といった人たちのそれにズラしたらどういう視野が拓けて来るかというもので、その結果、網野善彦は、中世を闇の世界から解放、職人・芸能民ら様々な職業に従事した特殊集団が、天皇や神仏に帰属することで全国を自由に放浪する特権を持っていたこと、そして世俗の人間関係とは「無縁」の立場をとり「公界」と称しつつも公権力を排した不可侵の場を持っていたことを明らかにし、中世を新たな可能性の出発点として捉えることに成功したのである。

だが、中世において数多く存在したこれら誇り高き放浪の自由民は、天下を狙う武将にとっては己れの権力に屈しない、正に目の上のたんこぶ的存在。

家康亡き後の徳川政権下で次第に不当な差別を加えられ、遂には歴史の表面から追いやられていってしまう。しかし、彼らをひとたび歴史の表舞台に立たせ、自分がこれから紡ぎはじめようとしている物語の担い手としたらどうなるか・・・・・・。

歴史家に負けない小説を書くこと、そして、歴史に刻まれることなく死んで行った者たちに鎮魂の盃を傾けることという二つの目的は達せられ、彼らの自由と人間の尊厳を守るための戦いを描くことは、最新のアカデミズムの成果をロマンの夢に組み替えるのを可能にすることになる――隆慶一郎は、そう確信したに違いない。

縄田一男さんの解説に従って、ボクも、網野善彦『無縁・公界・楽——日本中世の自由と平和』『日本中世の非農業民と天皇』は手に取って読んでみたけれど、どうしてこれらを読んで『影武者徳川家康』のような胸躍る超絶おもしろ時代小説が書けるのか、まるでわからなかった。

人は同じ景色を見ても、そこに映っているのが同じとは限らない。同じものを見ても、受け取れる情報は人によってまるで違うのと同じです。問題なのは、発信者側ではなく、受け取れる側のレベルなんじゃないか。

ニュースで時々見ますが、1年に1回、地域の特別な行事があったことが報じられて、参加した小さい子供たちが感想を聞かれて答えるのは「おもしろかった」や「おいしかった」がほとんどなのは、受け取れる情報が小さいがゆえにまだ少なく、受け取った情報を言語化するには語彙や経験がまだ少ないからなのと同じだ。

どんな景色でも、どんな話でも、聞き手のレベルがすごければ、アウトプットする情報に大きな違いが出る。ボクが網野善彦『無縁・公界・楽——日本中世の自由と平和』『日本中世の非農業民と天皇』を読んでも、ウンコしか出なかったけれど、隆慶一郎はそれを土台に『影武者徳川家康』を生み出した。

「最新のアカデミズムの成果をロマンの夢に組み替え」て、「彼らの自由と人間の尊厳を守るための戦いを描」き、その結果として、「歴史家に負けない小説を書」き、「歴史に刻まれることなく死んで行った者たちに鎮魂の盃を傾ける」作品を「読まずに死ねるか」というわけです。

同じ本からインタビューの部分も紹介します。

新人物往来社【隆慶一郎読本】より
隆慶一郎インタビュー
ーーーー『吉原御免状』以来、隆さんの小説には「公界人(くかいにん)」と呼ばれる人達がよく登場します。

隆:ええ。彼らにはいろいろな言い方があるんです。「道々の輩(ともがら)」とか「道々の者」とか「公界往来人」「公界人」。

要するに土地を持たず漂泊・放浪を常としていた人たちで、傀儡(くぐつ)、山窩(さんか)、願人坊主、海人・山人、職人、芸人、 武人といった連中。中世以来彼らは「上ナシ」、つまり支配被支配の関係を離れてどこへでも行くことのできる、 一種の自由人だったようです。

Version 1.0.0

隆慶一郎さん(1923-1989)は、編集者を経て、大学で仏語教師、中央大学助教授を経て、本名・池田一朗名で脚本家として活躍。還暦を過ぎた1984年、『吉原御免状』で作家デビュー。1989年『一夢庵風流記』で柴田錬三郎賞を受賞。新潮社の言葉を借りれば【時代小説界に一時代を画すが、わずか5年の作家活動で急逝】。

新潮社『隆慶一郎全集5』より 隆慶一郎さんが呪文のように唱えた中原中也の詩句

隆慶一郎全集 巻二
『影武者徳川家康 一』より

中世からこの時代にかけて、全国を漂泊してなりわいをたてて歩く多くの人々がいた。

「道々の者」「道々の輩」「公界人」又は「公界往来人」と呼ばれ、時に「渡り」と呼ばれたが、この人々はほとんどが「天皇供御人」 (なんらかの形で天皇家に奉仕する人々)か、神社の神人、寺の寄人の肩書をもち、「諸国往反勝手」という特権を与えられていた。

これは敵対関係にある大名相互の土地にも自由に出入りが出来るし、関所や川、港でも、とがめられることなく、金を払う必要もないという特権である。

どうしてそんなことが出来たかというと、彼等が「無縁」だったからだ。

つまり俗世間とは縁を切られて、一切の利害関係をもたない、中立の人間だったからだ。

隆慶一郎全集第二巻『影武者徳川家康 一』

この時代、戦国大名同士の戦いの仲裁人として必ずといっていいくらい僧侶が出て来るが、それは殆んどが無縁の『公界僧」である。中立という点を買われたわけだ。

「道々の者」の特性は、その漂泊性のほかに「上ナシ」の心であるといわれる。「上ナシ」とは自分の上に他人を認めない、自分が誰かに使われるのを好まないということだ。現代風にいえば自由人でありたいということになる。

・・・・およそこの時期から三十数年間にわたって、一向一揆は、天下を統一しようとする時の政権と執拗無残な戦いを繰りひろげることになるのだが、この戦いは、乱暴ないい方をすれば、「自由」 の「統制」に対する抵抗の戦いであったということが出来る。

『道々の者」の特徴は「上ナシ」の心だったと先に書いたが、当時の農民もまた同じ心の傾斜をもっていた。

『諸国ノ百姓、ミナ、主ヲモタジモタジトスルモノ、多クアリ』

『主ヲモタジモタジトスル」とは税金をおさめることを嫌うということだ。検地などという余計なことをして貰いたくない。

検地とは税金をとりたてるための方便だからだ。自分の田畑に自分が労働して作った作物を、何故他人にとり上げられねばならないか。それを力ずくでとり上げようというなら、土地を捨て、税金のない土地へゆくか、流浪して『道々の者」の仲間に入ってやる。

そうすれば国はつぶれるだろう。事実、この土地を捨てる行為を『逃散」といい、中世から この頃まで、農民の国主・守護・大名に対する最も有力な抵抗の手段だったのである。

こうして『主ヲモタジモタジトスル」農民たちと、「上ナシ」を生活条件とする『道々の者」 たちが、自然に集ってゆく場所はどこか。それは「(権力) 不入ノ地」といわれた「公界」か、同様に世俗の権力の入らない」「寺内」である。

堺の町、桑名の港などがこの「公界」に当り、摂津三島郡(現在の高根市)の富田、伊勢の長島などが「寺内」になる。

まだまだあるけど・・・・・

ピエールがいうので「今日はこのへんにいしといたるわ‼️」🙌

・・・・二郎三郎は本気だった。
十一年間の戦いを通じて、二郎三郎は一向宗の教義ではなく、それを支える一揆衆の心情を深く理解し、心底共感するに至っている。

人を人たらしめている条件の一つが、自由というものだということを識っている。その自由をかちとるための戦いが、人として当然参加すべき戦いであり、たとえそれが果てしない負けいくさに終ろうと、戦い続けてゆくことに意味のあることを識っている。

それは二十世紀、スペイン戦争に参加したアーネスト・ヘミングウエイや、アンドレ・マルローと、基本的には同じいくさというものの捉え方である。そして度重なる戦いと虐殺の中から、織田信長の秀麗な顔が最大の敵、つまり悪鬼羅刹として浮かび上がって来た。それを射つことだけが自分の仕事だと今や二郎三郎は信じ切っていた。

隆慶一郎全集(全19巻)

【1】吉原御免状
【2】影武者徳川家康1
【3】影武者徳川家康2
【4】影武者徳川家康3
【5】影武者徳川家康4
【6】鬼麿斬人剣
【7】かくれさと苦界行
【8】風の呪殺陣
【9】捨て童子・松平忠輝 上
【10】捨て童子・松平忠輝 中
【11】捨て童子・松平忠輝 下
【12】見知らぬ海へ
【13】死ぬことと見つけたり 上
【14】死ぬことと見つけたり 下
【15】一夢庵風流記 上
【16】一夢庵風流記 下
【17】花と火の帝 上
【18】花と火の帝 下
【19】柳生非情剣

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